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【話の肖像画】次代へ−熱血スクラム(3)薫田真広さん
□ラグビーU20日本代表監督
■攻めにいって大敗のW杯
≪大学卒業後、社会人ラグビーの東芝府中で活躍する≫
−−東芝府中を選んだのは?
薫田 8、9社から誘われ、最後まで悩みました。決め手はまだ日本一になっていないチームで、日本一になりたいと思ったから。神戸製鋼7連覇の時代で、東日本では三洋電機が強く、サントリーにもいい選手が集まっていました。
−−入社8年目の1996年度に全国社会人大会を制し、日本選手権で初優勝
薫田 めちゃめちゃうれしかったですね。社会人決勝で、三洋電機からの勝利を確実にしたトライは今も覚えています。当時(の社会人ラグビー)は秩父宮ラグビー場が満席になる人気で、ダフ屋がチケットを7万5000円で売っていたと聞きました。大観衆の中で勝てて、至福の時でしたね。
−−日本選手権を3連覇する黄金時代に突入します
薫田 縦のラインに村田亙(現7人制日本代表監督)、マコーミック(元日本代表主将)らいい選手がそろい、戦術がぶれなかった。4年目に勝てなかったのは変化がなかったから。神戸製鋼に分析され、零封負けしてしまいました。
≪日本代表としてもW杯に3度出場。主将として臨んだ1995年大会では、ニュージーランドに17−145の歴史的大敗を喫した≫
−−W杯とは?
薫田 五輪と同じく4年に1度の大会で別格。プレッシャーもあります。初出場の91年は無我夢中でした。
−−95年大会には歴史的大敗がありました
薫田 原因はリーダーのスランプ。自分が試合の状況を目で追ってしまい、残り14人に負担がかかってしまいました。外にけり出すなり、PGを狙うなりして、スコアを(最少失点に)まとめることはできたと思います。
ただ、W杯最後の試合だったので、中途半端に逃げるなら、4年間やってきたことをやろうと攻めにいきました。その結果、オールブラックス(ニュージーランド)から2トライを取れたのです。
−−2000年に現役を引退しましたね
薫田 99年W杯後に「今年で引退します」と宣言した。自分で決めていたのです。最後の1、2年が一番面白かったと思います。一プレーヤーになりきり、純粋にボールを追えたし、一番練習もした。毎日が百パーセントだから楽しかったのです。(奥村信哉)
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【プロフィル】薫田真広
くんだ・まさひろ 昭和41年、岐阜県各務原市生まれ。筑波大を経て東芝府中(現東芝)入り、日本代表キャップ数44。現在U20日本代表監督。

