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【停車場ストーリー】JR外房線・東金線 大網駅 出征兵士の姿、記憶にとどめ (1/2ページ)

2008.9.6 10:16
このニュースのトピックス停車場ストーリー
日の丸の小旗が打ち振られる中、かつて多くの青年がこの駅から出征していった=大網白里町提供日の丸の小旗が打ち振られる中、かつて多くの青年がこの駅から出征していった=大網白里町提供

 明治29年(1896)1月に房総鉄道の駅として現在の千葉県大網白里町南玉に誕生、同40年9月に国鉄大網駅となった。往時は西隣の土気駅との間に1000メートル進んで25メートル登るという急勾配(こうばい)があり、運転士泣かせの“難所”として知られた。客車を牽引(けんいん)する機関車1両だけでは力が足りず、最後尾に別の機関車1両を補助用として連結したという。

 千葉市と外房方面を結ぶ直通列車は大網駅で方向転換する必要があり、折り返して進行できるように軌道が設けられた「スイッチバック方式」も駅の特徴だった。駅近くで飲食店を営む君塚久江さん(65)は「小学生だった昭和20年代は『転車台』で方向転換する列車を眺めるのが楽しみでした」と懐かしむ。

 しかし、スイッチバックを解消し、列車の運行をよりスムーズにするため、駅自体が昭和47年に現在の場所に移転。約500メートル北東に離れた旧駅跡地の通称「旧駅公園」を訪れてみると、「旗振りて 出征兵士見送りし 駅舎の跡に 子らの歓声」と刻まれた石碑が立っていた。大網白里町の島崎善久教育長(75)は「(太平洋戦争当時)何人もの青年が、地元の小学生や婦人会など数十人に送り出されていった駅の出征風景を今も思いだす」と話す。

 駅周辺は米軍機による空襲の標的にもなり、当時を知る会社員、初芝文司さん(66)=同町金谷郷=は「防空壕の窓から見えた焼夷(しょうい)弾の明かりが印象に残っている」と振り返る。

 昭和60年代以降は駅周辺の宅地開発が進み、街は千葉市や東京のベッドタウンとして変貌(へんぼう)を遂げ、駅も表情を変えた。

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線路脇の斜面には市民や地元の高校生らが生けたプランターの花が咲く。出発を待っているのは東金線の電車。左側の離れたところに見えるのは外房線のホーム=千葉県大網白里町南玉の大網駅
ボランティアの市民による交通整理が、駅前ロータリーの混雑緩和に一役買っている=大網駅前
日の丸の小旗が打ち振られる中、かつて多くの青年がこの駅から出征していった=大網白里町提供
旧駅公園に立つイチョウの木。先の大戦では、米軍機の機銃掃射を浴びたという=千葉県大網白里町大網
外房線の2番ホームに着いた下り電車。1番ホームが千葉、東京方面、2番ホームが茂原、安房鴨川方面だ=大網駅
旧大網駅跡地は公園になっている。出征する青年を駅から盛大に送り出したころの情景を伝える石碑が建つ=千葉県大網白里町大網の通称「旧駅公園」
旧駅公園には、“記念碑”として往時の信号機も立っている=千葉県大網白里町大網
外房線のホームは、ホーム全体が大きくカーブしている=大網駅
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