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【ヅカファン必見】轟悠の素顔(4)ホームシックに祖父の叱責 (1/2ページ)
このニュースのトピックス:ウイークエンド「MSN産経ニュース」
昭和58年4月、轟は宝塚音楽学校に入学した。同期生は48人。入学式ではそろいのグレーの制服に身を包み、赤い蝶ネクタイを結び、タカラジェンヌへの第一歩を踏み出した。
《2年制の音楽学校は1年目を予科、2年目を本科と呼ぶ。モダンダンス、タップダンス、演劇、三味線、ピアノなどの授業があり、将来の舞台で必要な多くの技能を学ぶ》
58年の学年は、多くのスターが輩出した。愛華みれ(平成13年退団)に、真琴つばさ(同)、稔幸(同)…。この3人は轟とともに主演男役に就いた。5組で構成される歌劇団で、同学年の4人が同じ時期に主演男役を務めたことは、歌劇史上例のないこととして今も語り継がれている。
「実は、ノル(稔幸)以外の3人は成績があまり良くなかった。それが将来、主演男役になるんですから、人生は分かりませんよ」
轟は宝塚市内の寮から学校に通った。寮にも、学校にも細かな規則が多く、予科生と本科生の間には厳しい上下関係があった。予科生は、早朝から1時間半かけて学校の掃除をし、本科生とすれ違う際にはあいさつも義務づけられた。
当時、そんな生活に耐えきれず、「夜逃げ」する生徒も珍しくなかった。轟の学年も、入学から間もない時期、2人が寮から逃げ出した。部屋には荷物が残されたまま。轟もショックを受けた。
轟にとってはむしろ、団体生活よりも授業の方が苦しかった。周囲は、音楽学校を受験するにあたって歌やダンスを勉強してきた人ばかり。得意だと思っていた日本舞踊でさえ、レベルの高さについていけなかった。まして、初めて取り組むタップダンスがうまくできるはずもない。すぐに自信がなくなり、極度のホームシックに襲われた。

