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【青雲の大和】(307)出で立つ日 (1/2ページ)
鎌足(かまたり)の従者につきそわれて、門部金(かどべのかね)が小郡(おごおり)の宮の接見の間にはいってきたとき、憔悴(しょうすい)しきったその無残な姿に居ならぶ者は皆、眼を伏せてしまった。
顔はどす黒く変色し、頬にざくりと切れこんだ痛ましい傷あとがある。荒れる南海を漂流した苦難をそのままひきずってきた感じである。
「よく、もどってまいった」
主座にあって鎌足はいった。
門部は黙って顔をふせ、平伏した。海中に失ったのか冠はなく、伸びほうだいの髪が頬に垂れている。
「ほかに助かった者はいるか」
「四人おります」
低いくぐもった声で、苦しげに答えた。
「その者、どうしている」
「板切れにつかまって竹島(たけしま)という島に流れつきまして、まだそこにとどまっているはずでございます」
「すると、汝(いまし)だけか、その島を抜けでられたのは」
「やつがれ、試みに竹で筏(いかだ)を組み海にでましたところ、潮に流され神島(しとけしま)に漂着いたしました。島の者が哀れんで、舟で薩摩(さつま)に送りとどけてくれたという次第でございます」
「大使高田根麻呂(たかたのねまろ)らはどうなったのだ。残る百十五人がどこかに流れついていることは考えられないか」
鎌足は祈る思いできいた。この災禍の責任は自分にある、そう考えていたからである。
唐に友好の使節団をだすことを立案したのは、鎌足自身だった。唐の脅威にそなえるだけでなく、いわば平和外交に国家の方針を切りかえなければならないという判断である。
豪胆にもそれを水夫(かこ)をふくめ三百人規模の大使節団にふくれあがらせたのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)だが、方針として打ちだした鎌足の責任はまぬがれるものではない。
「もうしあげます」
門部は面(おもて)をふせ、床をみすえたまま答えた。
「怖ろしい暴風と荒波でございました。船はあっというまに転覆し、大使以下をのみこんで沈んでいったのでございます」