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【青雲の大和】(305)出で立つ日 (1/2ページ)
旻師(みんし)はその夜、昏睡状態におちいり、翌朝、留学生仲間の玄理(げんり)師と請安(しょうあん)師にみまもられて、静かに息をひきとった。
知らせで鎌足(かまたり)が駆けつけたとき、すでに安曇寺(あずみでら)の僧坊に弔問の列ができはじめていた。
難波(なにわ)の宮廷からは大君の使者が、飛鳥からは皇太子と皇祖母(すめみおや)(皇極天皇)をはじめ皇族、重臣の使者が、ぞくぞくと供物(くもつ)をもって僧坊を訪ねてきた。
大君からは、旻師のために菩薩(ぼさつ)像をつくってさしあげよ、という指示も届いている。
鎌足は国事を担う内臣(ないしん)としてではなく、師の学堂で育った弟子として、葬儀の諸事にあたったつもりである。
その間、もし蘇我入鹿(そがのいるか)が生きていたらという思いが、いくたびか胸を去来した。
入鹿は旻師をして、
−−わが学堂に蘇我の太郎に如(し)くはなし、
といわしめた秀才である。生きていたら、おそらくいまごろは、師の一番弟子はおれだ、といわんばかりに寺に乗りこんできて、鎌足にもなにかれと指示しながら、葬儀のことどもをやってのけたにちがいない。
蘇我の権力を身にまとうことさえなければ、じつに気のいい友であった。その友を鎌足は、天下万民のためとはいえ、謀略をもって屠(ほふ)ってしまったのである。それについて師は生前、ひとことも話されることはなかったが、できうれば学堂の一、二番弟子が手をとって国事にあたってほしかったのではないかと、師の心をいまにして思うのである。
葬送の諸事をすませると、鎌足は師の最期の提言となった唐への押使(おうし)派遣について検討をはじめた。
押使はむろん玄理師である。その下に大使として、旧蘇我系ながら外事にひいでた河辺麻呂(かわべのまろ)をあてるつもりで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に人事案をあげると、
「よし、同じやるならあの巨船でいこう」
と、即決で応じ、
「船はいつ、もどってくるのだ」
ときいた。
「北まわりと南まわりでちがいますが、あと三か月もすれば、二艘とも難波津にそろいましょう」