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【青雲の大和】(303)出で立つ日 (1/2ページ)
鎌足(かまたり)が大君に謁(えっ)しているあいだ、難波(なにわ)の皇居はひっそりと静まりかえっていた。宮廷の舎人(とねり)、女官は残っているはずだが、皇后と臣下、百官に置き去りにされた大君のお気持ちを憚(はばか)ってか、物音ひとつきこえてこない。
−−位を捨て、山碕(やまさき)にこもる。
大君はくりかえし、そういわれた。これがなにを意味しているかは、考えるまでもない。
事実上、大君は退位されたのである。
あとは名実ともに、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の時代となる。そう思うと、鎌足(かまたり)にはやはり、ひとしきりの感慨があった。
恩師、旻(みん)法師の教えをうけてから、ざっと二十年が過ぎている。国家改新の大業に乗りだす志を立て、中大兄皇子を主君に戴(いただ)いて活動をはじめてからも、すでに十年である。
はじめ鎌足は、軽皇子(かるのみこ)とよばれていた大君を奉戴(ほうたい)すべく、館(やかた)に通いつめた。そして、その器量に見切りをつけたのち、あの槻(つき)の広場で蹴鞠(けまり)に興じておられた中大兄皇子と、運命的というべき出会いを果たしたのだった。
すべては旻師の学堂で教えをうけ、志を立てたときから、はじまっているのである。旻師の教えなくして、いまの鎌足はない。
と思うにつけ、師の病状が重苦しく胸を圧してくる。
山碕に行宮(かりみや)を建てることで大君に納得していただき、皇居をさがってくると、その足で鎌足は安曇寺(あずみでら)の僧坊に臥(ふ)す恩師のもとにむかった。
難波の台地のうえにある長柄豊碕(ながらとよさき)の宮から、西方の浜辺に近い安曇江(あずみえ)までは、馬で急げばほんの一刻(十五分)ほどの距離でしかない。しかし、従者二人につきそわれ馬を打たせていくあいだ、鎌足は胸に重い墓石を抱くような暗澹(あんたん)とした気分に落ちこんでいた。恩師とは、あるいは今生(こんじょう)の別れになるかもしれない、という思いが胸にせまってくる。