ニュース: 文化 RSS feed
【青雲の大和】(298)出で立つ日 (1/2ページ)
はなやかな彩りの飾り船が琴と笛を奏(かな)でるなか、二艘の遣使船があいついで難波津(なにわづ)をでていってしまうと、中大兄(なかのおおえ)は鎌足(かまたり)をかえりみて、
「さて、やらねばなるまい」
といった。
真人(まひと)の相手をしていたときのやさしげな表情は消え、厳しくひきしまった精悍(せいかん)な顔つきがもどってきている。
「お供いたしましょう」
そうはいったものの、鎌足は気乗りがしない。これから皇居におもむいて、大君(孝徳天皇)を二人して説得しなければならないのである。
大国唐への使節団の派遣を終えたら、ただちに都を難波から飛鳥にもどす、というのが中大兄の方針であり、鎌足も条件つきでそれに賛同していた。
ねらいは二つある。
蘇我(そが)を倒して改新政権を樹立した中大兄と鎌足だが、難波に遷都してからは徐々に権力を大君のもとへ移し、朝廷での合議で執政にあたるようにしてきた。
−−天に双日なく地に二君なし、
という改新政権の原則をまもるためである。
しかし、結果はどうであったか。大化改新につづく諸改革のおそろしいほどの遅延である。ために、いまだ国をまもる軍制もととのっていない。もし唐新羅(しらぎ)の連合軍に攻めこまれるような事態が生じるならば、たちまちにして国が亡ぶとみなければならない。
やはり中大兄の皇太子府による強力な執政が、この国には必要なのであり、そのためには政治の中心を大化改新の原点である飛鳥にもどさねばならないというのが、第一のねらいだった。
いま一つは、難波が海に面していることである。国博士(くにはかせ)旻師(みんし)の話では、大陸では海に面して一国の首都がつくられたことはないという。もっとも海に近い高句麗(こうくり)の王都、平壌(へいじょう)は隋、唐の水軍の攻撃をうけ、いくたびか国家滅亡の危機にさらされている。
唐はまだ、半島征服の意図を捨てていないばかりか、高句麗と百済(くだら)にたいし唐帝が、
−−いつの日か、かならず兵をだし、汝(なんじ)らを討つ。
と、宣言したという恐るべき情報がつたわってきていた。