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【青雲の大和】(294)出で立つ日 (1/2ページ)
「なんとか、考えなおしていただくことはできませんの」
きょうも繰り返される妻、与志古(よしこ)のどことなく恨みがましい訴えに、鎌足(かまたり)は黙(もく)して答えなかった。
「なんといっても、まだ十一歳でございましょう。それに体があまりつよいほうではございません。唐の食べ物など、真人(まひと)にあいますかどうか。もし、むこうで病にでもなりましたら、どうなるのでございましょう」
与志古が心を痛めるのも、むりからぬところがあった。真人はいまは出家して定恵(じょうえ)の法名をえているが、鎌足と与志古のあいだに生まれたたった一人の子であれば、母として慈しむ思いがつよいのは、わからぬでもない。
「唐へは、ほかに百二十人ものかたがいらっしゃるとか……」
「いや、二艘で二百四十人だ」
鎌足は正した。
「でしたら、なにもこのような稚(いと)けない子を出すことはないのではありませぬか」
鎌足もはじめは、そのつもりだった。すでに発表した遣唐使と留学生の名簿に、定恵の名は入っていない。
しかし、この大使節団は大化改新を断行することで生まれかわった大和の国家が、はじめて大国唐に派遣する平和と親善の使いである。これによって唐との関係は、半島三国への覇権をめぐる対立から友好へと、大きく転換されなければならない、と鎌足は思っている。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)とともに、この歴史的な使節団の派遣を立案した鎌足が、みずからはいっさい関わらないで済ませることはできない。そういう思いで一子、真人を二百四十一人めの使節としてくわえたのだった。
それに真人自身にとっても、学問で身を立てるのに、またとない機会ではないかと思う。
父の鎌足からみても、真人は年少ながら、その才能はきわだっている。鎌足自身が十一歳だったころを思い返してみれば、いかにこの子がすぐれているかわかるのである。