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【露路庵先生のアンポン譚】森村泰昌 第17話 何も為さない事の価値 (1/2ページ)
検査の結果、母親の胃に悪性腫瘍(しゅよう)が見つかった。八月三日に入院、六日に手術した。正確には手術ではない。開腹せず内視鏡で患部を切除する、いわゆるEMRという方法で、この場合は手術ではなく「治療」と呼ぶ。治療担当も外科医ではなく内科医である。
私は二年前に父親を手遅れで亡くしている。
家族が入院することなどこれまでなかったため、すぐに「検査」「入院」というふたつのセリフを口にする医師に対して、私は長らく懐疑的であった。その結果、父を亡くしてしまったのが悔やまれて、母親にはしつこく検査をとアドバイスしていた。すんでのところで「手術」ではなく「治療」にとどめることが出来たという実感がある。
五時間半の「治療」を終え、どうにかこうにか病室に戻った母の看病の日々から、「看病とはなにか」とあらためて考えさせられた。
医師の役割はある意味明快である。とにもかくにも患者を治療し、元の体に戻してやること、これにつきる。老人医療や終末期医療など、「治ること」がテーマではない医療の現場もあるが、医師たる本分はやはり病の完治であろう。良い医師はその本分全うのために労を厭(いと)わない。患者のために「何かを為す」ことが仕事であり任務である。看護師のばあいもそれは変わらない。
「看病」のほうはどうであろうか。起き上がれない患者の介添えをしたり、ベッドを整えたり買い物に走ったりと、「何かを為す」役割もむろんある。だがそれだけなら看護師の役割の一部を代行しているだけにすぎない。しかし経験から言うなら、看病とは医師や看護師とはまったく逆の役割を担うことである。
患者はなにかをしたくても動けない。看病とは、その動けない患者と同じ時間を、同じ空気を吸いながら共有することであろう。それはちょっとお遍路さんの「同行二人(どうぎょうににん)」を想わせる。独りではなくお大師様と一緒に行脚していると感じられたなら苦行にも耐えられる。同様に、つきっきりの誰かがいるなら、患者の孤独感も少しは和らぐような気がする。

